まず、日本語の西(ニシ)の語源をみてみますと「日の(いに)(かた)の義」とあります。つまり「ニシ」は「日のいにし」という語の略したものであるのです。関西では「いぬ」という言葉を「帰る」という意味で使います。例えば「もうそろそろいんだほうがええで〜」(もうそろそろ帰ったほうがいいよ)というぐあいです。「日のいにし」も「太陽が帰る」とう意味でしょう。
 また「西」という漢字は鳥が巣の上に止まっている形の
象形文字で、太陽が西に沈むころ、鳥は木の上の巣に宿(やど)るという意味を表したといわれています。 
 他の仏教を伝えた言語(例えば、パーリー語、サンスクリット語など)における「西方」の意味を見てみますと、「背後」「夕方」「日没」「最後」という意味を伝えます。そこから派生して「
浄処(じょうしょ)」という意味合いも言うようです。つまりこの人間界から去り、新たな安心の世界への展開が「西方」という方角に見られたようです。
ここには日本人が持つ「死
」に対する不浄感や忌み嫌う感覚と同化する方角としての「西」ではないようです。日本人の中では夢で「西のほうに歩いていく夢を見た」というと「縁起悪い夢だ。もうすぐ死ぬという意味だ」などという人がおられると聞いたことがあります。
 インドにみられた太陽信仰を想像してみますと、一日一日を大変な思いで過ごしている庶民、カースト制で貧しい暮らしを強いられている多くの人々に、日本の太陽とは異なる、灼熱の太陽が照りつけている暮らしの中で、地平線に沈んでいく大きな太陽を見ながら「今日も一日終わった〜。今日も一日生きておれた〜」と手を合わせる世界です。その太陽が沈んでいく方向に、
安養(あんにょう)の世界を求めたのもうなずける気がします。そのような環境でない私達日本人では、なかなか理解できないかもしれませんが、日本人の感覚で似た感覚を探してみると、一日が終わる夕方、暖かい我が家を思いながら家路に着く、その暖かさと日の沈む方角を同一化した感覚ではないでしょうか。遊んでいた子供が日が沈むのを見て「もう家に帰ろう!家ではお母さんご飯作ってくれているだろうか。お父さんは帰っているだろうか」と家庭という安心の世界に向かって走って帰る、その気持ちに通じるものがあるのではないでしょうか。
 いずれにしても現在の私達にとって大切なことは、「西方」=「死の方向」=「悲しみの方向」=「(けが)れの方向」=「縁起の悪い方向」ととらえるのは間違いであること。それ以上に「西方」に安養(あんにょう)の世界を願う方向なのだということを理解したいものです。 

 ちなみに、「死」ということですが、純粋な「死」とはごく日常的なもののはずです。人が死んだ時、「急なことで驚きました」とよく言いますが、「死」が訪れることは決して驚きに値しないものでしょう。「死」を嫌うあまり、日常から「死」を排除しているから「死」が突然起こると錯覚してしまうのでしょう。そして純粋な「死」の周りに多くの欲望を絡みつかせているために、
例えば
「この人が死んだら、もうこの人を愛せなくなる。もっと愛していたいのに」
「もっとこの人に愛していてほしいのに」
「もっと話がいたいのに」などという欲望です。
この欲望がかなえられなくなるために、「死」が大きな苦しみとなり、忌み嫌い、悲しみの的となるのも事実です。よく考えてみましょう。

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「え!かんちがい?」

浄土真宗

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