「仏様にすくわれますよ」とお聞かせいただきますが、いったいすくわれたらどうなるのでしょうか?
いいことが起こるような予感はしますね 当たりです いいことが起こるのです!
でも、そのいいこととは、単なる欲望を満足するようないいことでは有りません。
単なる欲望とは「お金が手に入る」「試験でいい点が取れる」「病気が治る」「憎らしいやつをやっつけられる」というようなことです
本来、仏教の目的は何か
ということは、「すくわれる」ということも、「苦しみからの解放」ということになります。解放されるには2つあると思います。
1.苦しみが無くなる・・・・・・苦しみとなる原因が全く無くなるということ
2.苦しみが苦しみで無くなる・・苦しみとなる原因はなくならないけれど、苦しみと感じなくなるということ
1.に関して、苦しみの原因は何かと見てみますと、これは「欲望」です。全ての苦しみの原因は 『みずからの持つ欲望』 この他には有りません。「欲望」の無いところに苦しみは有りません。
自分の心に沸々と起こってくる「欲望」 あなたは捨て去ることができるでしょうか?
人間が生きていること自体が欲望だと言っても良いと思います。
だから、あなたが人間である以上、どのように神仏に願ってみても、祈ってみても、苦しみが無くなる事は無いでしょう。
2.をみてみましょう。
これは「苦しみを乗り越える」ともいいます。
この「苦しみを乗り越える」とは何なんでしょう。
@その苦しみ自体に価値を見出す
A感じている苦しみ以上の楽しみ、あるいは価値あるものを感じていく。
B苦しみの本当の姿を理解することにより、いままでとは違う価値観の生き方をする。
@は特殊でしょう。
例えば、ひどく罪悪感を感じることがあったとして、その罪悪感があるがゆえに、自分が受ける苦しみをよしとするような場合です。
Aはよく考えることです。
例えば、受験勉強は苦しい。でも頑張れば晴れて、大学生になれる。
あるいは、娘を嫁に出すのは嫌だけれど、娘の幸せを考えると、結婚もよしとする。
仏教でも、今苦しくても、お念仏を称えていれば、お浄土に行ける というような考えもあり、これもAの考え方でしょう。
Bの考えは結構素敵です。
例えば、娘を嫁に出す場合でも、嫁に出すのではなく、息子が一人できると考えられれば、苦しみを乗り越えられそうです。
あるいは、年をとって、自分の体が思うように動かなくなったとき はじめて、人間は生まれ、年をとり、そして死んでいく。その真実に心から気付き、大きな真理のなかに生きていることが本来の人間の姿であるとを理解する。老人になる苦しみが、大きな真理の中で生かされている自分に気付き、その苦しみを乗り越えていく。
これらの場合、いずれも苦しみの転換が必要になってくるでしょう。
ずいぶん理屈っぽくなってしまいまいた。
浄土真宗で言う「すくわれる」とは、
教えによって、無くなるはずの無い苦しみが別の形に転換され、そのものが原因となって、別の感情、気付きが生じ、あるいは別の生き方が生まれる。このことが苦しみを乗り越えるといい、苦しみからの解放であり、「すくわれる」という事なのです
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