田植えの季節になりました水は引いてあるものの、まだ苗は植わっていません。診療が終わり、医院から帰って来る途中、暗闇の田んぼですが見えました。月が出ていたので月の光に照らされて、水が鏡のように見え、水面にきれいな月を映しています。

ふと親鸞聖人のお言葉を思い浮かべました。

        「定水(じょうすい)を凝らすといえども  識浪(しきろう)しきりに動き、
          心月(           しんがつ)(かん)ずといえども 妄雲(もううん)なを(おお)う」

(修行によって精神統一しようと思っても、邪念(じゃねん)()いてきてできない。
心の中にあるはずの仏性(ぶっしょう *)を見ようとしても、欲望がそれを邪魔して見えない)

 親鸞聖人が比叡山で二十年も修行をされたにもかかわらず、自らの力ではどうしても悟りの境地には到達できないと思われた悲痛な叫び声です。
 修行が足りなくて悟りの境地に至れないのではなく、人間の真の姿を理解すればするほど、苦しみからの脱出(解脱(げだつ))は不可能に思え、自らのはからい(自力)の無意味さを、心底より感じられているのを歌われたのでしょう。
 
私はこのお言葉を、山々に囲まれた湖の水が、鏡のようになっている情景を思い浮かべられたのか、また山から登ってきたきれいな月をごらんになって思いを廻らされたのかと勝手に想像していました。しかしひょっとして親鸞聖人も、苦しい修行の中から本当の自分、本当の人間の姿を感じながら、比叡山のふもとにある里の、田んぼに映る月をご覧になってのお言葉かもしれない。なんてさらなる勝手な想像をしながら、車を走らせてお寺に帰ってきました。
 
親鸞聖人も七五〇年前にあの月をご覧になったのだろう、私も今夜、聖人がご覧になった全く同じ月を見た。同じ世界に生かされている自分を感じました。

仏性(ぶっしょう) : 本来持っている仏としての本性 

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ドクターボンズのひかり ≪6月≫