爾時佛告(にじぶつごう)長老(ちょうろう)舎利(しゃり)(ほつ)。】
『その時お釈迦様は、長老の舎利弗に述べられた』

(じゅう)()西方(せいほう)過十萬億佛土(かじゅうまんのくぶつど)(ゆう)世界(せかい)名曰(みょうわつ)極楽(ごくらく)。】
『これより西の方角、十万億の仏の世界を過ぎたところに、極楽という世界がある』

()土有佛(どううぶつ)(ごう)阿弥陀(あみだ)(こん)現在(げんざい)説法(せっぽう)
『この極楽という世界には、阿弥陀という仏様が居られ、今現在教えを説いておられる』

 (日本語の西(ニシ)の語源をみてみますと「日の(いに)(かた)の義」とあります。
つまり「ニシ」は「日のいにし」という語の略したものなのです。
また「西」という漢字は鳥が巣の上に止まっている形の
象形(しょうけい)文字(もじ)で、太陽が西に沈むころ、鳥は木の上の巣に宿(やど)るという意味を表したといわれています。
他の仏教を伝えた言語、例えば パーリー後やサンスクリット語における「西方」の意味を見てみますと、「背後」「夕方」「日没」「最後」という意味を伝えます。
そこから派生して「
浄処(じょうしょ)」という意味合いも言うようです。
つまりこの人間界から去り、新たな安心の世界への展開が「西方」という方角に見られたようです。
ここには日本人が持つ「死」に対する不浄感や忌み嫌う感覚と同化する方角としての「西」ではないようです。
インドにみられた太陽信仰を想像してみますと、灼熱の太陽が沈んでいく方角、一日一日を大変な思いで過ごした庶民がその方角に、
安養(あんにょう)の世界を求めたのもうなずける気がします。
日本人の感覚あえて表現すると、一日が終わる夕方、暖かい我が家を思いながら家路に着く、その暖かさと日の沈む方角を同一化した感覚ではないでしょうか。

いずれにしても現在の私達にとって大切なことは、「西方」=「死の方向」=「悲しみの方向」=「(けが)れの方向」=「縁起の悪い方向」ととらえるのは間違いであること。
それ以上に「西方」に
安養(あんにょう)の世界を願う方向なのだということを理解したいものです。

 ちなみに、「死」ということですが、純粋な「死」とはごく日常的なもののはずです。
人が死んだ時、「急なことで驚きました」とよく言いますが、「死」が訪れることは決して驚きに値しないものでしょう。「死」を嫌うあまり、日常から「死」を排除しているから「死」が突然起こると錯覚してしまうのでしょう。そして純粋な「死」の周りに多くの欲望を絡みつかせているために、「死」が大きな苦しみとなり、忌み嫌い、悲しみの的となるのも事実です。よく考えてみましょう。
《十万億の仏の世界を過ぎるとは?》
経典について一言。お経に書かれている言葉というのは、本来人間の言葉ではありません。
仏の言葉です。あるお話を聞いても、人間は一人一人が違うようにその話を理解します。
それは自分勝手な解釈から抜けられないからです。
その人間が話す言葉も、相手が理解してくれているのが当たり前と勝手に思っている言葉なのです。しかし仏の言葉は真実の言葉で、自分勝手な人間はそれを理解することは不可能です。
仏典とは不可能とは知りながら、何とか知らしめようと、人間の理解できる言葉で書きあらわされたものなのです。仏典を読む時にはそのことを考えにいれて読まねばなりません。つまり表面に表されている意味だけではなく、何をしめしているのかを考えて読まねばなりません。

 なぜ「十万億の仏の世界」を過ぎる必要があるのか。
仏教には仏様はたくさんおられます。キリスト教やイスラム教のように一神教、つまり神様は唯一お一人というのとは違うのです。
その多くおられる仏様がたは、それぞれが理想とされる国をお作りになられます。それが「浄土」と呼ばれるところです。例えば阿弥陀如来様がお作りに成られた「浄土は」「極楽」と呼ばれ、また「極楽浄土」とも呼ばれます。
多くの仏様がたがお作りになられた「浄土」は「仏の世界」ですから、一つ一つ素晴らしい世界のはずです。
しかし完璧な世界ではなかったのです。
すべての人・物が救われる世界ではなかったということです。
言い換えますと、それほど人間が多種多様であったので、すべての人・物を救える完璧世界がなかなかできなかったと考えられます。多種多様とは、それだけ人間に煩悩つまり救われない原因があるということです。
もっと言いますと、人間は十万億もの救われない原因を持っているということなのです。
その救われないすべての原因を、呑み込んでしまう世界が、阿弥陀仏の極楽浄土なのです。
「過ぎる」とは時間的、空間的に「過ぎる」という意味ではなく「超越する」という意味とお考え下さい。

「過十万億仏土」が表す意味は「人間というのは、いえ「私は」自己中心的であり、その事にも気付かない存在です。
私の中には数え切れないほどの、煩悩(救われない原因)があります。
その救われるはずの無い私が救われる世界が、阿弥陀仏の浄土なのです」という意味なのです。 

ドクターボンズ の経典のあじわい

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参考文献等
「浄土真宗聖典ー注釈版ー」 本願寺出版
「阿弥陀経の本義」 稲城選恵著 国書刊行会
「阿弥陀経に聞く」 伊東慧明著 教育新潮社
「人物まんだら」 「阿弥陀経のこたばたち」 辻本敬順著 本願寺出版
「一口法話 阿弥陀経を味わう 三十六篇」 藤枝宏壽 永田文昌堂
「浄土真宗聖典 浄土三部経ー現代語版ー」 本願寺出版


有難うございました

-仏説阿弥陀経ー

仏説阿弥陀経 序文 その4 (西の世界と十万憶の仏の世界)

【 】 には原文(お経のお言葉そのまま)を書きました
『 』 には現代文で意味を書きました
( ) には注釈や、おあじわいを書きました

                                              底本は鳩摩羅什訳のものを使いました
                                  (参考にさせていただいた文献・御著書はページ最後に 載せさせていただきました)